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「IQ300」人類最強の頭脳を誇るジョン・フォン・ノイマンの功績とは

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ジョン・フォン・ノイマンは、IQ300という非常に高い知能指数を持っていたと言われています。

IQ300は、非常に稀な知能指数の一つであり、世界中でごくわずかな人々が達成することができるとされています。

ノイマンは20世紀の偉大な科学者・数学者の一人で、彼の知性と創造性は現代の情報科学や数学に多大な影響を与え、彼が残した偉大な足跡は今もなお称賛されています。

そんなジョン・フォン・ノイマンについてのエピソードと業績についてまとめてみました。





ジョン・フォン・ノイマンの生い立ち

ジョン・フォン・ノイマンは、1903年にハンガリーのブダペストで3人兄弟の長男として生まれ、彼の家族は裕福なユダヤ系で、父は銀行の弁護士をしていた。

ノイマンは幼少期から異常なほどの記憶力と推論力を持ち、6歳の時には、父親から贈られたボルタ式電卓で初等数学の問題を解くなど数学的才能を早くから発揮していました。

幼少期におけるエピソード

  • 幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せ、父親と古典ギリシャ語で父親とジョークを交わしていた。
  • 6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行うことができた。
  • 8歳で家の一室にあったヴィルヘルム・オンケンの44巻本の歴史書『世界史』を読了し、二次方程式の解法についての論文を書き、ハンガリー王立科学アカデミーに投稿した。
  • ランダムに開いた電話帳のページをすべて一瞬で暗記することができ、その中の名前をランダムに尋ねると該当する住所と電話番号を間違えることなく答えることができた。
  • 10歳のノイマンはルーテル校に入学し、習字、音楽、体育以外の全ての学科で最優秀の成績を収め『神童』と呼ばれた。
  • 数学教師ラースロー・ラーツは、入学直後からノイマンの異常な能力にイチ早く気づいていて大学レベルの問題を出してみると、ノイマンはその問題を完璧に解いて見せた/li>
  • ギムナジウム(ヨーロッパの中等教育機関)の数学教師の誰もが、もはやノイマンに教えることはなく、むしろ彼ら(数学教師)でさえ知らない集合論や群論の定理をノイマンから教えて貰っていた。

青年期におけるエピソードと業績

  • 17才のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。
    その論文は1922年にドイツ数学会雑誌に掲載される。
  • 18歳から23歳の時にブダペスト大学 の大学院で数学を学びながらベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学を学ぶことになった。
  • 1930年代はナチス政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになり、プリンストンに招かれ、アルバート・アインシュタインと出会った。
    彼は、原子爆弾開発のためのマンハッタン計画にも参加し、核爆弾の爆発に関する数学モデルを作成しました。

ジョン・フォン・ノイマンの功績

  • 数学ではゲーム理論の成立に貢献し、数学の分野だけでなく、企業経営における戦略の理論や、軍事戦略の基礎理論などに指針を与え社会に大きな影響を与えた。
  • 物理では量子力学を形式的に完成させた『量子力学の数学的基礎』で知られる
  • 爆発物の分野での第一人者となり、アメリカ合衆国海軍に対するコンサルティングの仕事をした。
  • 1930年代半ばから爆発時の空気や液体などの流体の衝撃波に興味を持ち、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した。
    この炸薬を漏斗状に成形すると爆発力が中心の空間に集中して厚い装甲板を貫通する効果は、ノイマン効果とも呼ばれている。これらの成果は、第二次世界大戦において、対戦車砲弾や魚雷の爆発に応用された。
  • アメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加していた時にゴールドシュタインから初の汎用電子コンピュータENIACのことを聞いた。
    ENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる高速での計算が可能となる案を作り上げた。
  • ノイマンは、現代的なコンピュータの基礎となる「フォン・ノイマン・アーキテクチャ」を提唱し、プログラムとデータを同じメモリ空間に格納することで、プログラムを自由自在に変更できる汎用性の高いコンピュータを実現した。
  • 気象学や気象予報において数理モデルとコンピュータを使う斬新な手法を持ち込み(数値予報)、天気を操るアイディアも提案し、地球温暖化も予測した

核兵器開発におけるフォン・ノイマンの関与

ジョン・フォン・ノイマンは、第二次世界大戦中にアメリカの原子爆弾開発計画に参加し、核兵器の設計と試験に関与しました。

彼は、原子核物理学やコンピュータの分野での専門知識を活かし、爆弾の爆発をモデル化するための数学的なシミュレーションを開発しました。

彼はまた、爆風の影響や放射能の拡散など、爆発後の影響を評価するための研究にも取り組みました。
彼の貢献は、アメリカの原子爆弾の成功に不可欠であり、核兵器開発の歴史において重要な役割を果たしました。

フォン・ノイマンと量子力学の関係

ジョン・フォン・ノイマンは、20世紀初頭に発展した量子力学の分野でも重要な役割を果たしました。

彼は、量子力学の基礎的な原理や数学的な理論を研究し、その発展に大きく貢献しました。

また、彼は量子力学の数学的な記述を改良し、より洗練された数学的手法を導入しまし、その成果は、現代の量子力学においても重要な位置を占めています。

彼の貢献により、量子力学は物理学において基礎的な理論の一つとして認知され、現代科学においても重要な分野の一つとして研究が進められています。

ジョン・フォン・ノイマンの晩年

太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に骨腫瘍あるいはすい臓がんと診断された。

癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けた。
しかし、彼は後に核戦争の恐怖に直面し、核兵器の廃絶を訴えるようになる。

彼は、科学技術の発展が人類の存続を脅かす可能性があることを警告し、核兵器の恐ろしさを訴え続けました。
また彼は、科学技術の進歩を通じて平和と安全を確保するために、人類が協力する必要性を訴えました。

彼の警告や訴えは、現代社会においても重要なメッセージとして認知されています。
1956年1月にワシントンD.C.のウォルター・リード病院に入院。1957年2月に53歳で死去。

人類最強の頭脳を持つと言われたジョン・フォン・ノイマンの亡骸はニュージャージー州のプリンストン墓地に埋葬され眠っている。

 
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